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キャンディーズ解散の真相とスーちゃんの復活 [オヤジの独り言編]

スーちゃんネタで怒涛の三連だーーーーん!!!!

今日もまたスーちゃんになってしまったどーーー。

ということで、TBSでスーちゃんの特番をやっていて、途中から見た。

いくつか新しい発見があった。

キャンディーズは、1978年に普通の女の子に戻りたいと引退して、その2年後、スーちゃんは復帰する。(結局三人とも復帰するが・・・)

欽ちゃんと一緒に出た復帰会見では、やはり記者から「普通の女の子には戻れなかったのか」と突っ込まれていた。


▼キャンディーズ引退の背景

2008年の欽ちゃんとの番組の中で、家族が入退院を繰り返していて、弟が特に重病だったから看病するために引退したというニュアンスがあった。

・参照動画:『田中好子さん2008年』



この中で、骨肉種で病床にあった6つ下の弟に、「やっぱりテレビでお姉ちゃんを見たほうが勇気づけられる」と言われ、欽ちゃんに相談したということだ。

その欽ちゃんとも、以前からの知り合いでも何でもなく、ミキちゃんの家が欽ちゃんと同じ世田谷で、欽ちゃんの本を読んで話してみたかったということで、突然、家を訪ねてチャイムを鳴らしたら、ちょうど在宅していて家にあげてもらったということだ。
欽ちゃんが、「弟がそう言ってるなら、テレビに出て1番になって弟を元気づけてやりなさいよ」と押されて、復帰を決意して欽ちゃんの番組に出ることになる。

1989年『黒い雨』でブルーリボン賞の最優秀女優賞などをはじめ賞を総なめにして、その一つの授賞式で欽ちゃんと一緒になり、「これで弟も喜ぶね」と言われるが、その時、弟はすでに他界していた。

うれし涙が悲しみの涙になってしまったようだ。

1977年7月に日比谷の野音で、スタッフも事務所も誰も知らない中で、キャンディーズの三人はコンサートで最後の曲が終わると解散宣言をしてしまう。
その場にいた当時ディレクターだった松崎澄夫氏は、彼女らの言葉を消さなきゃいかんと、バックバンドに演奏をしろと言うが、彼らも動揺して音が出なかったとのことだ。

所属の渡辺プロダクションの誰にも知らせなかったが、唯一、レコード会社CBSソニーの稲垣氏にだけ、コンサートの一週間前に、「解散する」と電話で伝えてきて、説得するができなかったと後ほど語っている。

この野音での解散宣言でランちゃんが言った内容が印象に残った。

「私たちは人の目のとどかないところで孤独と闘いながら生きていきます。普通の女の子に戻ります」

普通の女の子・・・は有名だが、人目をはばかって・・・孤独と・・・は彼女らには不似合な言葉だと思った。

まあ、解散の真相というと賑々しいが、これは、思春期に芸能界のような特殊な世界にいると、よくある単純なことだと思う。

普通の同年代の子供の生活が羨ましくなり、一番大きくて代表的なのが、自由に恋愛もできない、ということだろう。

最後の後楽園球場での解散コンサートでは、この時のためにずっと考えてきたセリフとして次のように語っている。

「わたしたちは本当にしあわせでした」

この言葉は今回のスーちゃんの言葉に通じる。


▼復活の意味

スーちゃんが復帰の年、最初に出演したドラマで夏目雅子と共演し、その後もずっと親友としてつきあうことになる。

そして5年後に、夏目雅子が急性白血病で亡くなってしまう。

スーちゃんの葬儀で、自分の言葉で「私は復活する」というフレーズが出てくる。

縁あって夏目雅子のお兄さん、小達一雄氏と結婚するが、1993年に彼女の遺産をもとに、難病の子供たちのために「ひまわり募金」を設立している。

その時に、スーちゃんは「これで雅子ちゃんは復活したね」と言ったということだ。

TBSの特番で小達氏は、なるべく早い段階でスーちゃんの基金を作りたいとして、次のように語っている。

「一人でも多くの元気な方々と社会福祉の新しい形をを考えてみたい」

「家内は復活したいと切にに願っていた。被災者のお役に立てるようなものを考えていきたい」

また彼女自身も「天国で被災された方のお役にたちたいと思っています。それが私の役目だと思います」と言っている。

この基金でスーちゃんは復活することになる。

テープにメッセージを吹き込んだ理由をご主人が次のように語っていた。

彼女が「自分は本当に幸せな人生を歩めた」と言い、「人に恵まれ環境に恵まれ、一人でも多くの人にお礼が言いたい」

と言ったので、「じゃあテープでとろうということになった」とのことだ。

●田中好子さんからのメッセージ (2011年03月29日録音)




▼最後の曲

先回のエントリーで

≪いくつかの線が紆余曲折しながらも一点で交差した、という感覚があり、一つのメッセージになっていたように思う。≫

と書いたが、その線が今日またいくつかみつかり、やはり一点で交差していたと思った。

知らなかったが、出演した映画で、万田邦敏監督『ありがとう』という映画があり、これは阪神淡路大震災で地元の復興に活躍した夫婦を描いているということだ。

ここでもまた交差している。

●映画『ありがとう』舞台挨拶in神戸三宮
http://bit.ly/mM0IbX

TBSの特番で、解散コンサートの最後の曲は『微笑み返し』だと思っていたけど『つばさ』というランちゃんの作詞の曲だったことがわかった。

キャンディーズ / つばさhttp://www.youtube.com/watch?v=fipm5y12xyU



この曲を聞いたときに何かを思い出すように湧いてきたが、事柄ではなく、ある感情みたいなもので、それは自分のものではないものだった。

なんとも言えない切ないものと同時に、暗闇の中で明かりが見えないが、とにかく一歩を踏み出そうとしている意志みたいなものも感じた。。

●キャンディーズ感動の名場面最後の言葉
http://youtu.be/M5peq5OZfdI

スーちゃんの強い意志と思いが伝わってきたのかもしれない。

今頃は、大震災で亡くなられた方々を癒しているのかもしれない。

2011年4月21日永眠

7月に復活か?!

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『24』 [オヤジの独り言編]


「24」について

オヤジがよく言っているんだけど、いつも「24」という数字に付きまとわれていて、必ず何かあると24だといっていた。

まずオヤジの誕生日が「24日」で、実家の電話番号が末尾4桁が「2424」で、出席番号が「24」で、高校の受験番号が「24」と・・・・、数々の24に支配されてきた、とも言っていた。

で、そんで開きなおって積極的に「24」を使うようになったみたいで、車のナンバーをわざわざこの番号にしたりIP電話の番号に使ったり、自分で決められる数字にはこの番号を入れているみたい。

それで、今日またなんでこの番号のことを書こうとしたか、聞いてみると、たまたまあるブログを読んだらこの数字の意味というのが目に入った、ということだ。

でなんだったのか?それが、、またまた、、、出てきたんだ、、、、と本人びっくり!仰天!!

あの「2012」という数字だったんだって!

あの時の映画はまだ見てないとかで、あんまり興味はないようだけど、なんで2012かと聞くと、「平成24年」だから、

だ、そうだ。

 ん~、じゃあ、なんで小さい時から(平成が無いときから)それが決まってるのか、いろいろ疑問は残る。

で、そのブログを見て、「24」と「2012」という数字が出たので、ここのブログを久しぶりにアップしようとして管理画面を開くと、なんと、、そこには「下書き」のタイトルに既に「24」と出ていたんだって!!!

またオヤジが既に書いてたんでしょ?と聞いても「記憶がないらしい」。

んんで、中味はなんて書いてあったのか・・・「何も書いてなくて、ただタイトルに、その数字が入ってた」

たぶん、オヤジが忘れてるだけだと思うのだが、やけに、この一つの流れに乗っていて方向ずけられている、とか何とか言っていた。

また、今年に入り(2/4以降)少し、変わってきたんだって、なんだかはわからないけど、やっぱり『2012」に向かって流れているらしいことはつぶやいていた。

つぶやきといったら、最近はツイッターとかにオヤジははまっているとか。

たぶん、こことおんなじで「ぼやき」になっていると思うけど・・・・。


と、ここまでは実は去年の2月に書いたものだった。

今は2011年の3月27日で、「2012」というタイトルの記事を書いたのが、2009年の11月だった。

下書きに自分では覚えていない「24」が最初から入っていたというのは、忘れていただけだと思うが、それが気持ち悪くてエントリーしてなかったように記憶している。

さて、2週間前の3月11日に東北地方と関東地方が大地震に襲われ、マグニチュード9.0という大惨事になった。

特に津波の被害は甚大で、町全体がのみ込まれ、跡形もなくなったところも少なくない。

この津波を見て最初に思ったことが、「一年早かったのか」というものだった。

以前の記事にも書いた大阪のマッサージのおばちゃんが予言したことは、あまり詳しくは書かなかったが、彼女が言っていたことは、まず「水」が来て、次に「火」が来る、というものだった。

だから津波で、あれだけの被害が出たことは水ということで、次の火ということになる。

それについては火山の噴火ではないかと思っている。

それが来年の2012に起きるのではないかということである。

実際に東日本大震災の後、各地の火山活動が活発になっている。

参照:震災後、全国13の活火山が活発化 専門家「注視」(朝日新聞2011年3月25日

3月15日には静岡で震度6強の地震が起きていて、震源地は富士山の近くだった。

2012に向けて富士山の噴火を視野に、火の災厄に注視していかなかればならない。

火山ともう一つが放射線被害だ。

これはもう、関東から逃げたほうがいいのではないかと思うくらいの惨状である。

もしかしたら2012年は、放射能拡散になることも考えられる。

 

 


「欲望」は善か悪か [オヤジの独り言編]

またまたオヤジの独り言が始まった、が最近はボクが聞いてなくても一人でしゃべってるから、半分無視している。

井上陽水の唄で有名な「限りない欲望」がある。子供の時に白い靴が欲しくて母にねだって手に入れたら、今度は青い靴が欲しくなった。二十歳になり好きな彼女を追い求め、教会での結婚式当日、指輪をかわす時に相手の指を見たら、既に見飽きた指だった。死ぬ間際になって、どうせ死ぬなら天国へ、と限りなく欲望が続いていくという、唄だ。

人間に欲望が無くなったら、科学の進歩も無くなるだろうし、発展もしなくなってしまう。ただ仏教では、「欲望を求める人は苦しみを求めている」といわれているように、欲望を「煩悩」の一つとして否定的に扱っている。欲望というのは限りがないので、どこかでそれを規制し、一時期は悪として忌み嫌わなければ、教育が行き届いていない時代や、成長していく上で、それが障害になってしまうような時期には、そのような考え方も必要だと思われる。煩悩に執着する心をいかにコントロールしていくか、ということだと解釈できる。その名残として、育ち盛りの子供などに一つの指針として教育や躾などに、それを利用してきたように思う。

なんで欲望が気になるかというと、人間の行動を規定するものを考える時、その動機となっている根底が欲望ではないかと思ったからだ。何かをやってみよう、とか、こうしてみようとか思うときは必ずそこには、そうしてみたい、こういうことをやってみたい、という欲望があり、それが動機となって行動に移される。

「動機づけ」の事を考えていて、その原点は欲望なんだという結論に達して、本格的に心理学を学んできた人やマーケティング理論などを少しでもかじれば、そんなことは考えるまでもなく「当たり前」の事だと言われそうだが、意外と知っているだけで、実感したり、体得するというところまでは自分も含め少ないような気がする。

なぜ動機づけかというと、人間の全ての行動・言葉・表情・思考経路・感情の状態などは、原点が様々な動機づけによっていて、その動機づけが欲求に寄って立っているんだ、ということで、欲求と欲望について調べてみた。

まず欲求と欲望は同義語の表現や使う場所の違いではなく、手のひらと手の甲の表と裏くらいの違いがあると思う。「欲求」は本能と同じく生きる上で、全ての動物がもっている食欲・眠欲・生欲・性欲などで、生理的・本能的な欲で、「欲望」は、同じ欲でも人間しか持ってない創造したり発展するために必要なものかな? 

欲望は、物欲、金銭欲、名誉欲、自己顕示欲などそれが満たされた時に快感を味わえる、ということで、より能動的な欲望である。欲求は生きていく上で身体が必要な最初から生き物に付与されている「生きるため」の欲望である。
 
マズローは、人間の基本的欲求を低次から

1.生理的欲求(physiological need)

2.安全の欲求(safety need)

3.所属と愛の欲求(social need/love and belonging)

4.承認の欲求(esteem)

5.自己実現の欲求(self actualization)

の5段階に分類した。このことから「階層説」とも呼ばれる。また、「生理的欲求」から「承認の欲求」までの4階層に動機付けられた欲求を「欠乏欲求」(deficiency needs)とする。生理的欲求を除き、これらの欲求が満たされないとき、人は不安や緊張を感じる。「自己実現の欲求」に動機付けられた欲求を「成長欲求」としている。

人間は満たされない欲求があると、それを充足しようと行動(欲求満足化行動)するとした。その上で、欲求には優先度があり、低次の欲求が充足されると、より高次の欲求へと段階的に移行するものとした。例えば、ある人が高次の欲求の段階にいたとしても、例えば病気になるなどして低次の欲求が満たされなくなると、一時的に段階を降りてその欲求の回復に向かい、その欲求が満たされると、再び元に居た欲求の段階に戻る。このように、段階は一方通行ではなく、双方向に行き来するものである。また、最高次の自己実現欲求のみ、一度充足したとしてもより強く充足させようと志向し、行動するとした。

欲求の種類もマレーによると、かなり多くなり細部に分類している

  • 獲得:財物を得ようとする欲求。
  • 保存:財物を収集し、修理し、補完する欲求。
  • 秩序:整理整頓、系統化、片付けを行う欲求。
  • 保持:財物を持ち続ける、貯蔵する、消費を最小化する欲求。
  • 構成:組織化し、構築する欲求。
  • 優越:優位に立つ欲求。達成と承認の合成。
  • 達成:困難を効果的・効率的・速やかに成し遂げる欲求。
  • 承認:賞賛されたい、尊敬を得たい、社会的に認められたい欲求。
  • 顕示:自己演出・扇動を行う、はらはらさせる欲求。
  • 保身:社会的な評判・自尊心を維持する欲求。
  • 劣等感回避:屈辱・嘲笑・非難を回避する欲求。
  • 防衛:非難・軽視から自己を守る、また自己正当化を行う欲求。
  • 反発:二度目の困難に対して再び努力し、克服・報復する欲求。
  • 支配:他人を統率する欲求。
  • 恭順:進んで他人(優越な人間)に積極的に従う欲求。
  • 模倣:他人の行動やあり方を真似する欲求。
  • 自律:他人の影響・支配に抵抗し、独立する欲求。
  • 対立:他人と異なる行動・反対の行動をとる欲求。
  • 攻撃:他人に対して軽視・嘲笑・傷害・攻撃する欲求。
  • 屈従:罪悪の承服・自己卑下の欲求。
  • 非難の回避:処罰・非難を恐れて法・規範に進んで従う欲求。
  • 親和:他人と仲良くなる欲求。
  • 拒絶:他人を差別・無視・排斥する欲求。
  • 養護:他人を守り、助ける欲求。
  • 救援:他人に同情を求め、依存する欲求。
  • 遊戯:娯楽などで楽しみ、緊張を解す欲求。
  • 求知:好奇心を満たす欲求。
  • 解明:事柄を解釈・説明・講釈する欲求。
  • となっている。(ウィキペディアより)

    これらの欲求がなんらかの理由で満たされない時にストレスになっていく。

    葛藤
    • 接近と接近 - ラーメンも食べたいけど、ハンバーグも食べたい。
    • 回避と回避 - 塾にいくのは嫌だし、かといって家に帰っても親に叱られる。
    • 接近と回避 - 試験に受かりたいけど、勉強はしたくない。

    障壁

    • 物理的障壁(天候・時間・距離など) 例 - 運動したいが、外が雨でできない
    • 社会的障壁(法律・評判・習慣など) 例 - バイクに乗りたいが、まだ16歳以上でないので免許が取得できない
    • 個人的障壁(能力・容姿・思想など) 例 - 試合に出たいが、それだけの能力がない
    • 経済的障壁(お金・物資など)      例 - ブランド品を買いたいが、お金がない

    となる。

    欲望については、それ自体は善でも悪でも無いが、その方向性が問題となると思う。

    フロイトは人間の一番強いエネルギーは「性的エネルギー」であるとし、そのエネルギーをそのまま使うのではなく、その代用して何をするかによるとのこと。芸塾家は絵を描くことでそのエネルギーを使い、会社経営者は会社の発展のためにそのエネルギーを使い、サラリーマンはその仕事かあるいは自分の趣味にエネルギーを使う。

    欲望や欲求を押さえ込むのではなく、いかにそれを昇華させ、方向性を示してそのエネルギーを利用していくかにかかってくるのではないかと思う。

    こうしてみてみると欲望は仏教が言うように決して「悪」では無く、行動の源泉であり、人間の根源的な、人間を人間たらしめている重要な要素であり、善でも悪でも無いことがわかる。

    今までは「欲があんまりないので」と欲を否定することにより自分を肯定している表現をしたり、「欲深い人」「欲の塊」というと有無を言わさず「悪」だと決め付けたりと、「欲」というのは虐げられてきたとも言える。

    「欲」の方向性を見定めて、それを規定し方向付けることに腐心していくことが肝要だと思える。

     

    s-IMGP6988.jpgニュースなんかで毎日やってるけど、殺したり殺されたり、騙したり傷つけたりと「人間というのはどうしようもない」と思う時がある。ボクから見ると、何でそんなに欲に縛られているのか、なんでもっと他の人のことも考えてあげないのか、なんでそんなにひとりで悩んでいるのか、わからない。与えられているもの以上のものを望む時に苦しむものであり、犬の世界では全てをまず受け入れているから悩むことは無いんだけどネ!


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    シンクロニシティ=共時性 [オヤジの独り言編]

    「シンクロニシティ」という心理学用語がある。そのまんまのタイトルの本を、25年も前に一度読んだだけなので、内容などはほとんど忘れてしまったけど、この言葉だけは、よく頭に浮かんでくる、というか「あ、シンクロだな」とか一人で言っている。 「意味のある偶然の一致」ということだが、日本語では「共時性」と訳されていて、心理学者のユングが提唱した概念だ。

    最近、この「シンクロ」が起きた。

    毎年、ある忘年会の幹事をやっていて、忙しさにかまけて日程を決めかねていたんだけど、候補日を決める前にまず、副幹事的なヤツに連絡しなきゃと思っていた、ちょうどその日にそいつから別件で電話があり、忘年会の相談ができ、それからその日の夕方、1年に一回その忘年会で会うだけという人に、あるビルのエレベーターの中で声を掛けられ、「あっ今度また忘年会案内します」と一言だけ言うことができ、まだ案内メールを出せずにいた次の日の朝、駅へ向かう途中で、一台の車が私の横にぴたりと止まり、声を掛けられた相手が、例の都議会議員で、駅で街頭演説した帰りということで、すかさず「忘年会案内するので来れたら来てね」といって一瞬で別れ、電車に乗ったらすぐに、「○日はダメだから外しておいて」というメールが別の人から届いたと思ったら、また違う人から「いつやるんだ」とお叱りのメールがきたという、これって「共時性」というのか、ただ単に忘年会の連絡が遅くて、みんなから「どうしたんだ状態」でプレッシャーをかけられたんだか、と疑問に思うのだが、これらがほとんど24時間以内に起こったことに関しては、やっぱり「シンクロニシティ」だ、と実感した次第である。

    ユングが提唱し、そのユング心理学の根幹の一つに「集合的無意識」(普遍的無意識)がある。(ここからは自論)        たとえば、胎児がお腹の中で成長していく過程は、生物の起源から進化してきた過程が再現される(ヘッケルの反復説)と言われていて、その図式と同じく、それを精神的観点で見たときに、人間の意識層の奥深いところでは、動植物に共感する同じ次元の意識があって、その深層意識には、大きく二つあると思っている。一つは、生物の進化の過程においての意識で、人類の悠久の歴史から綿々と引き継がれている、積み重ねられてきた意識層であり、時間軸としての集合的無意識(縦軸の無意識層)。もう一つは、現在の家族、地域、民族、国家を超えた、人類の中に共感する無意識層で、響き合い、通じ合う、という同時代の空間軸としての集合的無意識(横軸の無意識層)、と勝手に名づけて勝手に思い込んでいる。

    ある人が何か一つの事を想うとする、それが強ければ強いほど共時性の輪が拡がっていく。水滴が静水に落ちて波紋が拡がっていくように、その意識は伝播して、その人の意識と共鳴・共感する人に移っていく。その想いが一点に絞られているほど強く共鳴し、想いが強いほど拡く伝播していく。

    今回は忘年会という共通の話題に「まだ日程は決まらないの?」という一点の、より強い意識となって共鳴し伝播した結果なのである。(笑)

    この「意味のある偶然の一致」は、必ず誰でもあると思うが、ただの「偶然」として片付けられていることが多いと思う。

    逆に言えば、あえて強く念じることによって、自分の主張を人に伝播させる、ということもあり得ることになる。

    現象から見た場合は、ある人物が持っているもの、着ている物、している事などが、自分の中にあった潜在的な願望や、やってみたかった欲求などが、それを見て、聞いて、読んだ事などによって、共鳴・共感して、自分もそれが欲しくなったり、やってみたくなることなども「シンクロニシティ」のある側面と言えるのかも知れない。その人物が影響力(持っている潜在的意識の力)が大きければ、共感・共鳴する人も増えて、それが流行になったり、トレンドになったりしているのではないかと思う。

    この間、誕生日プレゼントで「Hat」買ってもらったんだけど、誰も持ってないと思ってたのに、同じメーカーのものをmieさんが既にもってたんだよねえ、見事にシンクロしちゃったか~。

    s-画像 020.jpgオヤジさあ、そんな、水の中の競技?のことをグダグダ考えてどうすんの?ボクはオヤジがもうイっちゃってるんじゃないかと心配してるんだ。


    教育問題? [オヤジの独り言編]

    051129_1126~0001.jpg京都の木津川で小学生が溺れたて死んだってオヤジがぶつぶつまた例の独り言を言っていた。

     木津川と言えば京都に行った時に下ろうとしていた川で、地元のカヌーショップのおやじさんに「あまりきれいな川じゃないからお勧めできませんよ」とか言われてあきらめた川だ。

    川遊びなどをしていて特に川下りをするような川の事故はとても気になるようで、今回は一緒に遊んでいた小学生達が友達が溺れたことを親にも黙っていて、死んだ子の親が警察に捜索願いを出してから、初めて溺れたことが発覚し、死体で発見されたとのこと。 日頃川では遊んではいけないことになっているらしく、友達が溺れたことも、川で遊んだことがバレてしまうからと黙っていたということだ。

    友達の命より、怒られない事を選択したことが、ボクにはどうしても理解できない。ボク達の世界では何かまわりで異変があればすぐに察知して、まず、すぐそばにいる人に知らせるか、異常な吠え方で周囲に知らせる、ということが、あたり前になっている。 交通事故にあった友達を助けるために動物病院に知らせに行ったり、飼い主が倒れたりしたら、なんらかの手段で知らせようとする。 こういう事は、教えてもらうまでもなく、誰もが本能の中に最初から備わっているものだと思っていた。

    オヤジがまたぶつぶつと言い出した。

    自分さえよければ、バレなければ、など自己中の考え方、またあれをやってはダメこれもダメと子供を縛り付ける事が躾だ勘違いしている親や社会。命の重さがゲームなどを通じて軽くなってる安易さと関係性の希薄さ。 この事故を通して今の社会の歪みが垣間見える。

     やっぱり教育かな。


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    「心根」 [オヤジの独り言編]

    「心根」について

    仕事上、会社などに電話をすると、ほとんど最初は女性が出る。

    「○○と申しますが、○○さんいますか?」

    相手の受け応えにその人の気持ちや仕事に対するモチベーション、やる気、取り組む姿勢などが瞬時に感じてしまうのは不思議である。

    顔が見えない分、そういうものに敏感になっているのかもしれない。

    「○○は今出かけてていませんがーー」と語尾の「がー」がやけに長い・・・・なげやりな返答。

    「少々お待ちください」と言ってかなり待たせて「お待たせいたしました」の一言もない気使いの無い返答。

    「○○はただ今外出していますが」と何時に帰社するのかフォローがないもの。

    「○○は今いませんが、何か?」私が聞いておきましょうかくらい傲慢な態度・・・おばさんに多い。

    中には少し乱暴だけど、何かしら気持ちがいい返答もある。

    「ちょこっと今外出してますけど、どうしますぅー」女子高生的な口調ではなく、知的な感じでなぜか仕事が出来そうな予感がしてしまう。

    「どうもですー。今日は一日戻らないと思いますよ。どうもでーす」・・・・どうも?って、まあ感じはいいが少しなれなれしい。

    ここで正統派の返答

    「申し訳ございません。○○はただ今外出しておりまして、○時には戻ってまいります。お急ぎでしょうか?よろしいですか?お電話あったことを伝えておきます。申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします」

    ちょっと丁寧すぎるけど、口調もマニュアル的ではなく、気持が言葉にこもっていて、大変印象がいい。

    同じ言葉でも口調によってはまったく逆の印象をあたえてしまう。

    意識的に感じよく取り繕っても、ちょっとした言葉尻でボロが出てしまう。やはり、常日頃の人に対する接し方や、仕事に対する姿勢も出てきてしまう。

    これは「心根」だと思う。

    相手を慮って尊重していれば、印象の良い言葉が自然に出てくるのではないだろうか。

    最近ではメールなど「顔は見えない、声は聞こえない」で、ちょっとした表現が受手の想像力を掻き立て、変に誤解を生みやすい。

    相手との関係性もあるが、「心根」いわゆる心の根っこがどうなのか、で言葉も文字もその意味とは関係なく、一人歩きして相手に伝わるものが違ってくるのではないかと思う。

    「心根」は先天的にも与えられているものだが、後天的にも作られていく。ただ、どちらが大きいかはわからないが、無意識層にも関係してくることを考え合わせると、先天的な要素が強いのかもしれない。

    何を動機としているか、日ごろどのように自分の心を育てているかが言葉の背後にはあり、それが言葉の意味とは関係なくに相手にストレートに通じてしまう。

    荒っぽい言葉でも、その人のことを真剣に考えていたり、愛情をもって使えば、伝わり方が違ってくる。

    無意識のうちに、つい出てしまったマイナス的な言葉などは、「なんであんこと言っちゃったんだろう」と後で考えてもわからなかったりする。

    また、相手の反応をみてハッと気づかされることもある。これは受け手も無意識の内に感じてしまうからだろう。

     

    もしかしたら「心根」は、3歳までに作られたものが後天的なもので、そのほとんどは先天的に引き継いでいて、あとは一生は変わりえないのかもしれない。

    ただ常に意識しながら、心の枝葉の部分を少しずつ変えていけると思いたい。


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    ありがとう、タイに行ったサポーターたち [オヤジの独り言編]

    祝 ドイツワールドカップ出場決定!一番乗り!!!

    前半はどうなる事かと思った。グランドの状態の悪さ、ミスパスやミストラップが目立った。北朝鮮のカウンターの縦パスがやけに正確に思えた。

    ただ、そんな中でもスタジアムの外で無心に応援しつづけていた日本サポーターたち。選手達の声の背後にかすかに聞こえてきていた応援。試合を見るんだったら日本でテレビ観戦できるのにあえて現地で試合も見ることもできず、何も状況もわからない中で、一途に選手を鼓舞する応援を続けていてくれた方々。

    今日、W杯出場決定以上に感動しました。ありがとう、一途なサポーターたち。


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    生き方 [オヤジの独り言編]

    「先立つ後悔」か、逆に後悔ばかりが先立って前に進めない時があったりする。

    「わかっちゃいるけどやめられない」ということが多すぎる。

    10年後の自分を想像して、その時点で後悔することをまた想像する。むずかしい。

    どちらかというと「今」を重視しているからか....。

    目的が明確ではないからか.....。

    よく自分に厳しい人は顔に出ていると思うことがある。まわりに緊張感を漂わせ、人にもそれが伝わり威厳というのか、オーラというのかエネルギーなのか。

    ただ、そういう人はえてして人を寄せ付けないし、人にも厳しいから心から許せる人間関係を築きにくいような気がする。

    あるがままの自分。

    自然でひょうひょうとしている生き方。

    無理をしない人生。

    これも一つの生き方だし、優劣はつけられないと思う。

    ただ反省は必要だ。こうすればよかった、じゃあそうするようにしていこうと。


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    「無理してる」ということ [オヤジの独り言編]

    現代人は非常に「無理」をしていると思う。

    我慢と言う言葉に置き換えられなくもないが、少し違う。
    毎朝満員電車に乗って無理矢理押し込まれ、会社に行けば与えられたものを懸命にやりこなし、時には自分の能力以上のことを要求され、血眼になってそれをやり遂げようとする。仕事以外のことでも人間関係で気を使い神経をすり減らす。

    無理して飲み会に付き合い上司の悪口を聞く。無理してローンで家を建て、余分に食物を摂り、余計な物を買っても満足はせず、無理に幸福感を味わおうとしている、ように映る。

    心に余裕が無いとも言い換えられる。
    通りに人が溢れているような時、必ず急いでいるのか人とぶつかりながら前に進もうとしている人がいる。急ごうともがけばもがくほど、進む方向になぜか人が侵入してきて、またぶつかって結局遅くなり、自身もぶつかった相手も皆んなしてイライラし合っている。
    そんな光景を見るにつけ、「みんな無理してるなあ」とつくづくと思う。

    「無理」というのは「理が無い」ことで、「理」(ことわり)にかなっていないということだ。
    「理」とはいろいろな考え方もあると思うが、ここでは一般的に自然の摂理、いわば秩序・原理と考える。
    無理をするということは自然界の秩序に反している事であり、摂理に従っていないということで、本来の人間らしさというものを失っている状態ということだ。

    無理しない生活とは最近流行のスローライフということになる。また、無理しないということは相手を思いやることにも通ずる。

    電車の扉が閉まる間際に飛び乗ることは、自分は間に合ってホッとするかもしれないが、回りの人には大変迷惑だ。

    自分の身体に対しても無理をせず思いやる事ができれば、病気になる確立が何%かは減るのではないか。

    「無理をしない」ことができるためには、自分をどこまで認識できるかにもよる。誰でも自己顕示欲があり能力以上に自分を相手にみせようとするし、なかなかありのままの自分を見せるなんて人に対してはよほどの心情的な関係がないかぎり難しい。

    自分をわきまえ、ある面規定することができれば、等身大の自分を発見でき、自然と無理をしなくなるだろう。

    とういうと、なんだか隠居生活みたいで、これからという人、夢のために無理をして努力するとか、目標の大学に合格するため無理して猛勉強するとか、そういうこと全てが否定されている、この考えでは人類は進歩しない、と考える人もいるだろう。

    ただ、はっきりした目的意識にたって、能動的に将来の目標にむかって努力する時、傍から見れば無理しているように映るかもしれないが、本人にとっては無理していないのかもしれない。

    無理をしている時というのは結構自分ではわからないものだ。後から体調をくずしたりして、気付かされる場合が多い。また、人からの忠告、特に家族などは自分の体が気付く前に何らかの信号を発してくれる場合が多いと思う。

    「身の丈」とか「分相応」などというが、自分に与えられたタラント(能力や素質)を自覚し、与えられたその環境に感謝していれば、不平不満がなくなり、無理する事もなくなるような気がする。

     


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    日中韓の根本問題 [オヤジの独り言編]

    中国のデモを観て日本人なら誰でも気分が悪くなったろう。日本車というだけでボコボコにされ、乗っていた中国人は悲惨だ。サッカーアジアカップの時の大使館の車を思い出す。あれは弁償してもらったのかどうなのか?

    中国も韓国も日本に対して歴史・領土問題をかかえていて、何かあるたびに侵略・慰安婦・補償問題を引っ張り出し、面々と反日教育をやってきた。日本がいくら謝罪してもODAでお金をばら撒いても、技術協力しても、あくまでも表面的な友好関係であり、仮に彼らの満足がいく補償をしたとしても事あるごとに噴出してくるだろう。

    根底的にあるものは、中国にしても韓国にしても自分達が日本に文化を伝え普及させたのに、その下級の国が、あろうことか自分達を侵略し植民地化して、今や経済的には雲泥の差があることが許せないという、いわば感情論の問題なのではないかと思う。

    この問題はこの先、国境が無くなる日まで続くのではないだろうか?


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